関連記事 goときめき歴史散歩(2001年5月19日 産経新聞夕刊)

旭堂小南陵
旭堂 小南陵(きょくどう・こなんりょう)
講談師。51歳。古書集めが趣味。
「『たぬきおやじ』なんていうのは、それこそ幸村びいきの講釈師が作り上げた家康のイメージですわ」(大阪・浪花座の楽屋で)


【旭堂小南陵さんと「幸村、難波に死なず」】

●「アンチ東京」のシンボル

 「大御所さまには、久しぶりにお目にかかります」
 「うーむ、幸村、よくぞわしをここまで追いつめたな」

 「お命、頂戴(ちょうだい)つかまつる」

 上方講談を代表する軍談「難波戦記」。時は元和元年(一六一五年)五月、舞台は大坂夏の陣。真田幸村が徳川家康の本陣へと切り込むクライマックスの聞かせどころだ。

 一太刀浴びせておれば、今ごろ……。講談は、そんな夢を一時かなえてくれる。

 「家康を討ち取ってしまうわけですわ。大阪では定番でございます」

 「難波戦記」の幸村びいきはそれにとどまらない。徳川に敗れはするが、豊臣秀頼と薩摩に落ち延びる筋書きだ。

 幸村が花と散らねば、豊臣家に殉ずる「悲劇の武将」ではなくなる。「最期」がないと、盛り上がらないのでは?

 「幸村人気は、ただの判官びいきとは違うんです。東京への『むかつき』ですな」

 大阪・堺市生まれ。社会党の参院議員時代、執行部の方針に幾度も逆らい、党を離れる。東京嫌いの反骨精神は、「大阪人として染みついている」という。

 意外にも、江戸中期まで、家康はそれほど大坂で嫌われていたわけではない。それが、元禄を境に怪しくなる。

 「幕末から明治になって、東京との力の差が決定的になるんですな。遠因を探ってみるというと、家康やないか、となる。そしたら、出てくるのは、幸村しかないんです」

 そんな時代、庶民の心をつかんだのが「難波戦記」だった。以来、上方で盛んに上演され、喝さいを浴びた。

 今も、旭堂一門の十八番(おはこ)。師匠の南陵さんは「家康をののしる会」を開催していたほどの徹底ぶり。小南陵さんも毎度顔を出し、「あんな卑怯(ひきょう)なやつはおらん」「阪神が弱いんも家康のせいや」と悪口雑言で留飲を下げてきた。

 「本当言うたら、太閤さん(秀吉)が悪いんです。武蔵野(江戸)に、家康をやってしもたわけですから。でも、そんな話にはならん」  幸村は、たしかに生きている。大阪人のアンチ東京のシンボルとして。

旭堂小南陵
「川端康成だとか湯川秀樹だとかいろんな人の随筆に立川文庫が出てきます。当時の子供の夢やったんです」と小南陵さん


●決死の「赤備え」 武勇は永遠に

 「忍者」と聞いて、何を思い浮かべるだろう。疾風のごとく駆け、印を結んでドロンと消える−−。こんなイメージが一般に広まるのは、実は、明治時代以降の話だ。立役者は、真田幸村に仕える「真田十勇士」だった。

 「虎(とら)は死して皮を遺(のこ)し、人は死して名を遺す」

 少年向けの読み物「猿飛佐助」は冒頭、幸村をたたえる文章で書き起こされている。明治から大正にかけて、大阪で約二百編が刊行された「立川文庫」の一冊。「真田もの」はベストセラーとなり、超人的な忍者像を浸透させた。幸村と十勇士は、「名探偵コナン」や「仮面ライダー」のような、ヒーローになっていく。

 旭堂小南陵さんによると、元ネタは講談にあった。三勇士だったのが、七勇士になり、十勇士になったらしく、「ネタにつまって、忍者やら影武者やら出したんでしょうな」と背景を説明する。

赤備え
「時は来たり」。大阪城で、ばちを振り上げる「信州上田真田陣太鼓保存会」のメンバー。決死の覚悟を示す「赤備え」は徳川方を震え上がらせたという

 猿飛佐助、霧隠才蔵、穴山小助、海野六郎、筧(かけい)十蔵、根津甚八、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、由利鎌之助−−。

 大阪城(大阪市中央区)の天守閣前に今月、この十人が勢ぞろいした。「三途(さんず)の川の渡船料」とも言われる「六文銭」の旗が居並ぶ。真っ赤な具足の「赤備え」がただならぬ雰囲気を醸し出していた。

 真田家が居城を構えた長野県上田市の、「勇士」ならぬ「有志」の面々。幸村ゆかりの地を訪ねようと来阪した。猿飛佐助役の横山二男さん(70)は黒装束に身を包み、「十勇士は架空の英雄ではない。実在のモデルがいて、真田丸でも活躍している」と誇らしげだ。

◇◇◇

 慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣当時、難攻不落とうたわれた大坂城は、外側を惣(そう)堀で囲まれていた。その南東隅に出城として築かれたのが真田丸だった。

 跡地の周辺は現在、公園や住宅になっており、「真田山町」の地名が残る。「六文銭」を校章にする市立真田山小学校もある。

 「真田幸村という人がいました。たいへんゆうかんで、いくさのじょうずな人でした。少ない人数で大阪城を守ろうとしました」

陣屏風
重要文化財「大坂夏の陣屏風(びょうぶ)」に描かれた幸村(部分。大阪天守閣提供)

 同校の授業に使われている「わたしたちの町 真田山」からも、思い入れが伝わる。諏訪部善則校長(55)は「十勇士は、心を躍らせたヒーロー」と、校庭の古戦場碑を紹介してくれた。

 この地に陣を構えた幸村は、おとりで敵をおびき寄せ、一斉に狙い撃ちする奇策をとる。

 同校の北側にある三光神社の前まで足を向けると、当時の姿を思わす幸村像があった。緑に囲まれた静かな公園は、高台になっている。周辺に高いビルがなかった一九七〇年ごろまでは、大阪城天守閣を見渡せたという。

 すぐ隣には、真田軍の奇策を裏付けるような「真田の抜け穴跡」が残っていた。鉄格子で閉められ、中には入れない。腰をかがめると、くぐれるほどの大きさ。のぞき込んでみると、数メートル先で南に折れているのがわかる。

 「十勇士が穴を抜けて家康を奇襲した」「城内につながっていた」という伝承が残っている。一方で、「防空壕(ごう)跡」「キツネの穴」など、夢をぶち壊すような説もあり、真偽はわからない。

 小田礼五郎宮司(73)は「なぞが多いから夢が広がる」と語る。そもそも「幸村」の名前すら、なぞに包まれている。信頼できる史料に「幸村」という記述はなく、「信繁」とされているのだから。

◇◇◇

茶臼山
天王寺公園の一角にある茶臼山。大坂冬の陣では家康が、夏の陣では幸村が陣を構えた

 元和元年(一六一五年)の大坂夏の陣を迎えるころには、大坂城の堀は埋められ、真田丸も取り壊されていた。

 家康を一時は追いつめた戦いぶりは、敵方からも「日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由」「他国は知らず日本にてためし少なき勇士なり」「手がら古今に無之次第に候」と称された。「敵ながらあっぱれ」と言わせる幸村は、当時から間違いなく英雄だった。

 幸村が最期を遂げたとされる安居(安井)神社(大阪市天王寺区)の境内に、「戦死跡之碑」がひっそりと立っていた。合掌するのはやめた。このまま「十勇士とともに強きをくじき、生き延びた」と信じたかった。

文・二河伊知郎、写真・追野浩一郎

[ アクセス ]
 JR大阪環状線の大阪城公園駅を降りれば、すぐ西側に天守閣が目に入る。
三光神社は、大阪城から南へ1キロ程度なので歩いて行ける。同線の玉造駅前からであれば、徒歩5分。
安居神社は、茶臼(ちゃうす)山のすぐ北側。天王寺駅から谷町筋を北へ向かい、天王寺公園の北口から松屋町筋に入ると、右側に参道が見える。少し奥まっているので、見逃さないよう注意を。


[ 本 ]
 江戸中期の「真田三代記」以後、小説、評伝は数知れない。映画化、ドラマ化されている作品も多い。
中でも、「真田もの」の集大成とも言われる「真田太平記」(池波正太郎著、新潮文庫)が有名。真田十勇士を思わす「草の者」が、幸村とともに大活躍する。
井上靖、海音寺潮五郎、柴田錬三郎ら大御所にも、それぞれ著書がある。
地図

●死に場所探し夏の陣へ

 真田幸村(一五六七−一六一五)が、歴史の表舞台に登場するのは、大坂冬の陣以降である。関ヶ原の戦いの際、上田城に立てこもり、徳川秀忠軍の西上を足止めにした。この上田合戦により、秀忠を関ヶ原の戦いに間に合わないという失態へと追い込んだが、当時は父、昌幸の手柄として語られた。

 高野山・九度山での幽閉生活を経て、豊臣秀頼の要請により、大坂に入城する。徳川方の圧倒的な力の前では、すでに勝負の行方は九分九厘決まっていた。「豊臣家への忠義のため」「家康を討つため」「出世のため」など様々な説があるが、自分の生きざまとして、死に場所を探していたとしか思えないところが、「武士道」「反権力」「判官びいき」という精神と相まって後世に名を残すことになったのではないか。

 多くの英雄と同様、「不死伝説」が伝わる。「花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田がつれて、退(ひ)きものいたよ鹿児島へ」という童歌も残る。

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