関連記事 go芸/RON(2001年6月13日 産経新聞夕刊)

旭堂小南陵
旭堂 小南陵(きょくどう・こなんりょう)
本名・西野康雄。昭和24年9月、大阪府堺市生まれ。
大阪府立大学大学院農学修士課程終了。
43年、近畿大学在学中に旭堂南陵に入門、47年から南右を名乗る。53年、上方講談界で39年ぶりの真打として旭堂小南陵を襲名。
平成元年から参院議員1期。
演芸速記本の研究書を2冊著している。


【上方講談界の救世主 伝統残し現代の世相に斬り込む】

 大阪・日本橋にある雑居ビルの六階にあがった。表通りを往来する車の轟音が、窓ガラスを震わせて響いてくる。教室のようなこの部屋に、年齢も性別もばらばらの人たちが集まってきた。毎週水曜夕方から開かれる「旭堂小南陵の講談塾」だ。

 弟子の旭堂南半球が「難波戦記」を演じている間、師匠の小南陵は床をきしませながら歩き、時々立ち止まって忠告を与える。

 「坊主も家康も一緒に聞こえるで」
 「手職のローソクは手をかざさな、火消えてしまうやろ」

 南半球(25)は大学を出てすぐこの世界に飛び込んだ。弟子の旭堂南楓(34)が続いて演じた。彼女は高校などで古典の講師をしていたという。ふたりは昨年十月の入門だが、早くもプロとして師匠の前座を努めている。小南陵は、有望な弟子が入門したことに気をよくしていた。

 上方講談は明治時代に隆盛を誇ったものの昭和にはいってからの衰退が著しく、四十年代にはとうとう旭堂南陵ひとりになった。危機感を持った南陵が大学の落研 などで声をかけるなかで出会ったのが小南陵である。彼が、農学修士に似合った手堅い生き方を選んでいたら、上方講談の命脈は危うかったかもしれない。上方唯一の講談師一門である旭堂家はひん死の状態から息を吹き返した。いまは南陵を筆頭に十三人いる。

 「『芸人にさせるために大学やったん違う』言うて、烈火のごとくおやじに怒られました。学部のころから本名で舞台に出たりしていて 講談師になることは決めてましたが、怒りをさますために大学院へ行ったんです。そうしてひそやかに、師匠から『南右』という芸名をもらった」

講談塾  師匠ひとりに弟子ひとり。最初は十日間劇場に出て収入は三千円だった。「いつの日か食べていけるやろと思っていました。悲観的な考えは全然なかった」

 長髪の若い講談師はやがてラジオのDJなどの仕事を見つけ、同世代の人気も獲得していった。一方、若手の落語家たちと組んで各地に寄席をつくり、二十五歳のころにはもう講談道場を開いて後継者の育成をはじめた。この塾から後に、何人もの講談師が育っていくことになる。

 「落語家のように恵まれた環境なら放っておいても弟子は来るでしょうが、講談はそういうわけにいかないんです。だから、こちらから働きかけて仲間をつくろうという考えです」

 いまの塾生には、漫才師の里見まさとや、女優の紅萬子ら、講談師志願ではない人もいる。旭堂南総里見八犬伝という大仰な講談名を持つ里見は、講談の魅力を生き生きと語る。「講談の言葉って格好いいです。楽しいです。はまりましたね」

講談  講談は、釈台という小さな机を張り扇や小拍子で小気味よくたたきながら独特の節で語る。舞台装置も何もなく、たったそれだけで、刀を振り上げる武将の息遣いや、心の動揺など、眼前にありありとしたイメージを結ばせるという芸能である。上方の講談は笑いの要素が多少入るとはいえ、それも薬味程度である。

 「素朴な芸能だからこそ芸の力がないと引っ張っていけない」。小南陵はそれを「腕力がいる」とも言った。

 軍談、忠義、仇討ちなど伝統的なテーマだけではない。若い女性が押し寄せたことがあった。作家、夢枕獏との対談をセットに「安部晴明伝」を演じたときだ。コミックや小説で人気を集めた陰陽師の講談版。競馬講釈で人気を博している弟子もいる。小南陵は「僕らもマーケットリサーチするんです」と、いたずらっぽく言った。伝統はそれとして残しつつ、現代の世相にも果敢に斬り込んでいるのである。

◆ 気軽さ持ちつづけ ◆
 「モーレツからビューティフルへ」。 取材をしていて、三十年前にはやったCMのコピーが思い浮かんだ。あすをも知れない上方講談の世界に飛び込んだ背景に、当時の空気を多分に感じるのだ。襲名披露の記事が掲載された黄ばんだ新聞を見ると、松鶴、春団治、米朝ら重鎮の落語家に囲まれ、長髪のきゃしゃな若者が中央にかしこまっている。その舞台で「わたくしのこれからの努めは、精進して、師匠を早く死なせてあげること」と言い放って会場の爆笑を誘ったという。この記事の舞台写真は、ワッハ上方で入場者向けに無料で行っている上方亭である。こういう舞台にも出る気軽さを、いまも持ちつづけている人である。

文・坂本英彰、写真・竹村 明

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