講談はいつ頃始まったのだろうか 


講談は、明治時代に入ってからの呼び名です。江戸時代には講釈、あるいはさらにさかのぼりますと、軍談読み、太平記読みと言われていました。「太平記」のような軍談を読み聞かせ、難しい所を講義解釈するので、講釈と言うようになったのでしょう。それ以前にも経典講釈と言う言葉も、存在しています。明治に入って、娯楽性が増し、講話の談が取り入れられ、講談と呼ばれるようになりました。
講談師の世界では、家康の前では赤松法印と言う人が「太平記」や「源平盛衰記」を、講釈したのが始まりと言われています。しかし、舌耕芸の研究家である関山和夫氏は、法印と言う僧階に注目。講談も落語と同様、仏教の説教の系譜にあるとされています。その説教の読み口が軍談と結びついて、講談の原形になったと考えるのが自然と思います。そうすると、講談のルーツは中世にまでさかのぼれそうです。
しかし、ルーツを追い求めるより、どの大衆芸能も庶民が鑑賞出来るようになってこそ、一人前と考えていいでしょう。講談や落語が庶民の娯楽となったのは、江戸時代の半ばから幕末にかけてです。元禄十三年に赤松青龍軒が江戸堺町にて、講釈場を構えたとか、あの浄瑠璃作者の近松門左衛門が、泉州堺の夷島で徒然草を講釈したと言う記録もあります。
西鶴や近松の作品にも、さかんに講釈師が登場してきます。元禄の頃には、人々からお金をとって講釈をするプロが、京や大坂、江戸に出現していたと言うことになるのでしょう。
守貞謾稿と言う江戸時代の書物には「前ニ見台ヲ置ク、革包ノ扇ヲ以テ拍之テ講ス。」とあります。見台は講談では、釈台と言います。昔は江戸、上方とも皮革で包んだ張り扇を使っていたようです。現在は、東京では和紙製であり、大阪は今も革製を使っています。
小拍子と呼ぶ小さな拍子木を一本と、張り扇を使って、パパンパンと釈台を叩くのですが、小拍子も説教の道具。ここにも説教の名残りがあります。





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